2011年3月17日木曜日

身捨つるほどの祖国はありや その1


【宮城県沖地震の記憶】
宮城県民なら、1978年6月12日に起こった宮城県沖地震のことを知らない人はいないだろう。午後5時に起こった震度5の地震は、ブロック塀の倒壊や、夕飯の準備をしていた家庭からの火災を引き起こした。2歳のわたしは、倒れた机の下敷きになってアキレス腱を痛めた。宮城県沖地震で奪われた命は28人。倒れたブロック塀の下敷きになって無くなる人が多かったので、以後、ブロック塀を作る際には鉄の棒を芯として入れるようになった。


わたしが小さい頃から「宮城県には将来絶対に大きな地震が来る」と言われていた。みなこの写真を見ておびえた。一階がまるごとつぶれてしまうなんて!小学校の夏休みには地震被害の本が課題図書となり、「中国では動物による地震予知が実用化されそうという噂があるので、ぜひ取り入れて欲しい」というようなことを書いた覚えがある。中学校になると不安はますます強まり、宮城県沖地震にて積水ハウスの家はパネルが取れた被害だけであった、という情報をどっかから聴いて来て実家の立て替えの際に積水ハウスにしてほしいとゴネまくった。

宮城県の避難訓練は、宮城県沖地震が起こった6月12日に行われる。毎年毎年、この地震がいかに悲惨だったかを繰り返し教えられた。地震で被害を受ける人が二度と出ないように注意しようと。しかし人は忘れる。15年前、神戸で阪神大震災が起こった。強烈だった。ニュースから流れる倒壊した家屋、割れた道路、倒れた高速道路の映像は地震の記憶を薄れさせるのに拍車をかけた。それから中国で、インドネシアで地震がおき、インドネシアでは津波が現地の家をさらっていった。どれも実感がわかないくらい遠くで起こった出来事だった。地震は天災で、他人事だった。

【地震当日】
2011年3月11日、M9.0の東北関東大震災が起こった。誰がこんなことになると予測しただろう。東京は震度5強の揺れで、わたしはアルバイト先のオフィスビルにいた。横揺れが次第に強くなり、机の下に隠れた。twitterで見かけた「3月9日の岩手の地震は関東大震災の前触れ。2、3日後に東京で大地震が来る」という噂を思い出し、これでもう終わりかもしれないと思った。揺れは長く、揺さぶられるようで車酔いのようになったが、止まった。命拾いしたと思った。macの隣に飲みかけのコーヒーを置いて来たことが気にかかった。震源地などの情報はすぐに入ってこなかった。余震が続くなか、周りの人は通常の業務を続けようとしていた。15分に一回くらいガタガタ揺れるのでまったく仕事にならないが、誰も手を止めない。日本はすごい国だ。

誰かが「震源地は宮城県らしい」と言う。信じられない気持ちになる。会議室にあるテレビを誰かが付けた。地震発生から30分経っていた。画面には宮城県名取市の田園に津波が押し寄せる映像が流れていた。それでもまだ信じられない。名取の風景を全国テレビで見るとは思わなかった。しかもこれまでにみたこともないような悲惨な映像で。叫びだしたい気持ちになったが、わたしにはどうにもできなかった。携帯電話はつながらなかった。街頭の公衆電話を利用するためにビルの外に出た。たくさんの人たちがコートを着て路上に出ていた。サイレンが鳴り響き、非常事態がアナウンスされている。空に大きな飛行機雲のようなものが見えて、ああ、飛行機が飛んでいたのか、と思う。

ビルの大理石がひび割れ、かけらが散乱していた。公衆電話の災害ダイヤルにかけると、わたしの自宅は緊急電話の範囲外だと言われる。家の電話は繋がらず、家族にメールをしても返信はない。わたしが泣いても叫んでも現地の状況が変わるわけではない。わたしには何もできない。私には何もできない。こうしている今も、家族が瓦礫の下敷きになって助けを呼んでいるかもしれない。重い柱につぶされ、気絶するほどの痛みと苦しみに襲われているかもしれない。東京にいるわたしには何ひとつできることがない。背中にぴったりと冷たい絶望みたいなものが貼り付く。タイタニックの楽団は沈む間も音楽を奏でたという。わたしには何もすることができない。

【東京駅】
そのまま6時になり業務が終わる。あんな地震でも、みんな業務を続けていたのだ。電車がすべて止まっているらしい、帰れる人は早く帰るようにという通達が入る。twitterで「東京駅にいる」と書いたところ、工場長こと柳澤君が東京駅のタクシー乗り場に並んでいるというので向かった。いすさんが「3331においで」と言ってくれたので、合流できたら歩いて一緒に3331に行こうと思った。

八重洲のタクシー乗り場に着いたところ、既に2000人くらいの人が並んでいた。テレビ局が取材をしている。若いディレクターのような男の人が、MacBookでその場で編集をしている。東京駅の端から端までタクシーの行列ができている。電話はつながらないのでtwitterしか連絡手段がない。大きい荷物を持っているだろうから、列に並んでいるはずと思い、何度も列を見てみるが見つけられない。今思うと、判断力がまったく失われていた。ただ呆然と歩き回って探した。twitterでは都心で凄まじい交通渋滞が起こっていると書かれており、タクシーに乗っても帰宅できるかわからない。一瞬「ここでやなぎさわくーーーん!!!と名前を叫べばいいのかも」と思うが、あまりにも整然と並ぶ人々の前で、パニックが起こったら困るとか考えてしまって叫ぶ勇気が出ない。東京駅の地下通路は帰れない人が座り込んでいる。戦後の写真でこういうのを見たな、と思う。和服のおばあさんが新聞紙の上に正座している。柳澤君から「キラピカ通りという看板の下にいます」という情報が入るが、それはストリートの名前なので名前の書いてある看板がいたるところにあってまったく手がかりにならない。

待ち合わせの鉄則はとにかく動かないことだ。このときわたしはやたらと歩き回らずに「銀のすずにいます」とスタティックな情報を出して動かずじっとしていればもしかしたら会う事が出来たかもしれない。この次に世界の終わりがやってきたらそうしよう。結局柳澤氏とは出会うことができず、二時間半も歩き回っている私を心配した毛利悠子さんが銀座で避難しているところに呼んでくれた。柳澤氏は地下鉄とバスと歩きで6時間くらいかけて帰宅したそうだ。弟が前日に始めたツイッターで「家族が全員無事らしい」というメッセージをくれた。このメッセージでほんとうに楽になった。しかしこの連絡を最後に、一週間電話が通じなくなる。

もうりさんに送ってもらった住所をマップで検索し、東銀座に歩いて向かう。銀座は落ち着いていて、いつもと同じようだ。コンビニには食べ物があり、コージーコーナーが普通に営業している。超高級ホテルのロビーに人々が足を投げ出して座り込んでいる。靴屋さんには女性が買い物している。歩いて帰るための靴を買っているんだろう。表参道あたりでは一時間で何メートルくらいしか進んでいないらしいが、銀座では車が流れているように見える。カラオケ屋が割高で営業しているが行列ができている。居酒屋は普通に営業しているところが多く、みな楽しそうにお酒を飲んでいる。

【銀座】 
銀座の事務所に着いたらみんなが出迎えてくれた。もーりさんがすごく心配してくれた。ゆいさんは年に一回のスーツを着る日がたまたま今日で、花粉症の薬を飲めないのでのびたくんがメガネを外した目みたいになっている。もーりさんは銀座の和光の交差点で地震を迎え、ビルがぐわんぐわん揺れてたのを見たそうだ。アップルのビルの屋上にあるのが落ちてこないかと不安だったという。

事務所で暖かいご飯とお風呂、パジャマとソファを貸してもらった。テレビでは凄惨な映像が流れている。夜中になって地下鉄が動いたという情報が流れたが、暗闇が恐ろしくてたまらない。ザッカリーから「きみの実家はセンダイだったように記憶しているが大丈夫か?」というメールが届く。なんていい人なんだ。地震予告のおそろしい音がテレビからひたすら鳴り響く。1時頃、皆で就寝。午前四時、全員が同時に目が覚めて、すぐに余震が来た。


【地震の翌日】 
翌朝通常通りになった地下鉄に乗った。銀座線も半蔵門線もスムーズに動いている。みな終夜運転をしたらしい。西友によって食品を買う。新鮮なくだものや野菜が豊富にある。このすぐ後に買い占めが始まり、棚から食物が消える。翌日の朝にはまだあった。家は鏡が倒れていたくらいで、マックにはコーヒーもかかっていなかった。インターネットを見始めると、もう止まらない。見慣れた景色の凄まじい惨状がインターネットにしぬほどある。これはなんだ?

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